親鸞会
仏教講座
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ちょうど、私たちの身体は眼とか耳とか手足など、いろいろの器官が寄り集まってできていますが、どんなに手が忙しくても足は手伝えず、眼が忙しいといっても耳は手伝うことはできません。
眼は眼、耳は耳、各々その守るべきところを守って働いておればこそ、一身の共同生活を円満にしてゆけるのです。
しかしもし、足の先に蚊でもとまれば、あれは足が食われているのだからと、手はじっとはしていません。
蚊のとまった処を眼が確かめ、手がぴしゃりと打ちます。
一旦緩急があれば、一致協力して全体の安全を守り生かすのです。
雨は平等に降りそそぎ、草木の大小によって雨量を差別することはありません。
しかし受ける草木の方はどうかというと、大きな草木は大きいだけ多量の雨水を受け、小さな草木はそれに応じて少量を受けます。
若し、大小の草木が同量の雨水を平等に受けたらどうなるでしょうか。
それこそ大の草木に適量の時は小の草木はあまり、小の草木に適量の時は大の草木は不足して、結局大小ともに枯死することになってしまいます。
草木それ自身は受ける分量を不平等にするが故に、大小の草木がおのおのその性にかなって平等に生育することができるのです。
すなわち、平等にそそぐ雨に於て、不平等の受け方が不可避的に展開されるのですが、そうであってこそ平等に生かすことができるのだということです。
差別を無視した悪平等は種々の悲喜劇を生み、混乱を招きますからくれぐれも注意しなければなりません。
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